ここには本当の救いがある


エマミ・アスガル
(会社員 小岩栄光キリスト教会員)

僕はイランで生まれ、両親のもとで熱心にイスラム教の教えを学び、戒律を守ってきました。
 たとえば、1日5回アラーの神に祈る、年収の2.5%を寺院に納める、断食を守る、感謝のいけにえ(牛、鶏、羊等)を献げる等の戒律を守ることで、神の前に善行が積まれる。罪を犯したら、やはりいけにえを献げてアラーの神の赦しを得、善行の方が多ければ天国に行けるわけです。
 しかし、みなそのようにして戒律を守っても、罪が赦され天国に必ず行けるという救いの確信がありません。そのため神の裁きを恐れ、死者の罪を赦してもらうためにも、寺院や墓地で繰り返し祈るのです。 僕が高校生の時、イランは戦争中で、戦争ではアラーの神のために人を殺しても殺されても勝利は我々のもので、死ねば天国に行けると教えられていました。若者の間では、絶望感が漂っており、誰もが自分さえよければいいと考え、愛が感じられませんでした。(戒律を守って良い行いに努めても、結局人間は変わらないんじゃないか)高校生になって、イスラム教をさらに勉強する内に湧いてきたそんな疑問を、寺院の先生や学校の教師に尋ねても、納得のできる答えは得られません。それで、イスラム教の信仰を失っていき、代わりに受験勉強に打ち込み、良い大学に入り良い会社に就職しようと思うようになりました。

 

それ以来、何も信じられず、善悪の基準がないから、人が見ていなければ何をやってもかまわないと思い、心は怒りや寂しさ等の感情に振り回されて落ち着かず、結局何をやっても失敗してしまいました。
 三年後、やっぱり神様を認めよう、求めようという気持ちになってきて、キリスト教を勉強し始めました。アルメニヤから移民してきたクリスチャン達が、愛に溢れていてとても魅力的だったからです。でも、キリスト教に改宗することは、自分も家族も迫害されるし、教会の中にスパイがいます。それで、何冊もイエス様についての本を読んで心をしっかり整えてから、家族にも内緒で教会に行きました。

 

初めは、イスラム教を捨てたことでアラーの神に見張られているような気がして、心がとがめられて悩み、教会は自分の居場所ではないように思われました。でも牧師先生に祈ってもらった時、自分はイエス様に救われたのだと、瞬間的に確信できました。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)
 神様は私たちに罪の身代わりに、一人子イエス様を十字架につけて下さった。このイエス様を救い主として信じるなら、誰でも確実に天国に行ける。だからキリスト教の葬儀は明るいのです。ここには本当の愛、本当の救いがあります。この愛を伝えるキリスト教は、いわゆる宗教と違います。
 「わたし(神)はあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それは・・・平安を与える計画であり、・・・将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29章11節)
  大学在学中に徴兵されて、イラク軍に包囲されていた時でさえ、隠し持っていた聖書のこれらの言葉がいつも励まし支えてくれました。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイの福音書22章39節)
 この聖句のように、イエス様は僕の心を敵軍をも愛することのできる心に変えて下さいました。
  従軍中、アラーの神に祈らなかったため、罰を受けました。人を殺したくなかったから、処罰を恐れず最前線への配置を拒否しました。幸い神様は処罰からまぬかれさせて下さいました。
  除隊後復学したものの、もう母国には居たくないと思い、1年間働いてお金をためて大学を中退し、1991年繁栄の頂点にあった日本に、ペルシャじゅうたんの仕事をする予定で来ました。働きながら日本語を学び、教会に通って洗礼を受け、将来は神学校に行くつもりです。これらは全て、神の導き、ご計画であり、神が全てを用意されたのだから、不安も不満もありませんし、明日のことは心配していません。希望に満ちた日々を送っています。